小室直樹 宗教「日本教」テープ起こししました。

非常に重要なことが話し合われているように思いましたので。

 

 

 

http://youtu.be/svBTxN82pVA

http://youtu.be/BoUYv-hyHWw

http://youtu.be/s204Wg3Xmh0

 

日本教とは何かということなんですが、具体的にはどういうことですか。

 

日本教といいますと、日本に入ってきた宗教って随分ありますけど、どれもこれも実質的には日本教になっちゃうんです。

例えば仏教ですけど、仏教って戒律が厳格なことで有名でしょう。ところが日本に入ってきますと、たちまち戒律なんか全部抜き去られて、戒律ともども、日本の仏教の総本山である比叡山延暦寺の開祖ですね、その開祖が戒律を全廃した。

それ以来日本の仏教からはすこしずつ少しずつ確実に戒律が抜けていってしまいました。そして、ついに戒律なき仏教というような本来あるべからざる形になってしまった。

 

儒教の場合いかがですか。

 

それ以上ですね。儒教なんて言いますけど、中国では儒教といえば一つの宗教でして、儒教式葬式っていうのがありますけども日本で儒教式葬式なんかやるひといないでしょう。それから戒律の方も一つ抜け、二つ抜けほとんど戒律なんて無くなってしまいました。

 

その本質的なものが抜けていくというのはわかるんですけども、付け加わるとかいう所ははないんでしょうか。日本教の中身というもののは、じゃあいったい何なんでしょうか。

 

要するに、役人がそれをつくる。あるべからざる作り方をする。

 

役人が作るということは、役人というのは多分行政というか、あの、現実の問題を処理する人達ですよね。そういう人たちの都合が優先されて、宗教の論理は二の次三の次になっていくと

日本人はそれで皆いいと思っているんですか。

 

まさしくそうです。

 

そうするとそれはしかし通常の宗教とはちょっと違ったものですね。

 

非常に違いますね。だから儒教というのは中国では立派な宗教ですけど日本にきますと、宗教じゃ無くて道徳のような形になってしまう。

 

その順番をちょっと伺いたいんですがね、例えば仏教だったらば一番大事なのが、この世の真理、それを知る悟りですよね。儒教であれば政治制度とか、それを通じて人民の幸せを実現することとか、大事なことがらの順番があるわけであります。

でも日本にそういうものが伝わってくると、仏教も儒教も二の次三の次になってしまうと。

 

本質的な部分が。

 

はい。ということは、なにかそれより大事な物があると思うからこそそういうふうに考えるわけですよね。

何が一番大事だと、その役人なり日本人なりは考えているんでしょうね。

 

それは日本の国民の好みが大事だと思うわけ。すなわち、人間そのものにたいする好みです。

 

人間そのものに対する好み。

 

ということは、この島には、日本人が多く住んでいるわけですよね。その日本人が日本人として暮らしているということが一番大事なんですか。

 

簡単にいえばそうです。

 

簡単にいえば。

 

例えば、キリスト教やイスラム教、キリスト教なんかだったらば、人間より神の方がはるかに大事だと考える。だから、本来のクリスチャンが日本教を見れば奇妙奇天烈であって、日本人ていうのは、日本人の都合が神様の都合より大事であると考えてしまう人種であると。そういうふうに考える。

 

日本教にはじゃあ神様というものは無くて、私たちが一番すごいというか、一番ということでしょうか。

 

そう、そこをそういうふうに考える。

 

でも、日本には神さまというのはたくさんいますし、仏様も拝まれていますが、それとその、日本人が人間同士が一番大事だという考え方とはどういうつながりがあるんでしょうか。

 

そこがポイントですね。だから例えば、神様ですけれども、一神教では神が、人間よりも先に存在して、神様だけが本当に生きていると。

 

はい。

 

人間なんてものは神様が作ったものにすぎない。神様が大事で人間がその次に。

ところが日本では、神様は全て

 

人間の都合が大事だとか。それが日本教の特徴ですね。

 

じゃあ神様が人間に命令したり指図したりするのはできないし好ましくないという考え方になりますか。

 

むしろ人間のほうが神様に命令したり指図したりすることが出来れば一番いいと。

 

一番いいとはっきりとは言ってませんけれど、結論としてはそうなります。

 

仏様の場合もそうなんでしょうか。

 

はい。

 

日本では神様仏様って並べて考えるでしょう。それはもう、仏教の立場としてあり得ないことです。

 

仏教では確かに、神様というのはまだ悟りに至ってなくて、仏様のほうがランクが高いわけですね。日本人から見ると、同じに見える。

 

両方とも。

 

私たちってなにかやっぱり信じていると思うんですよね、私たちが一番と言うよりは、何かこう神様のような仏様のような、なにかすごいものがあるっていうなんとなく信じているような気がするんですけど。

 

なんとなく信じているような気がしますけれども、本質的には結局は人間が大事だっていう考えに帰着してしまう。

 

あ、それは大変によく考えるとそのとおりかもしれないユニークな考えだとは思うんですけど、もう少しここは慎重に考えて行きたいと思うんですね。

日本人と言えども、確かに実際に生きている仲間は大事だとというふうに思いますが、現実に生きている通りの人間は欲張りもいるし、ケチもいるし、権力の亡者もいるし、いろいろ欠陥のある人間がいてですね、まさにあるがままの人間を大事だと思いにくいと。むしろ結構足引っ張ったりですね、しながら生きていると思うんですね。

であるからこそ、どこかに仏様がいるとか、どこかに神様がいるとか考えたりするというのが宗教の普通の筋道だとすると、どうして日本人の場合、そういうふうに神様仏様が大事だと思わないで、人間がやっぱり大事というふうにおもってしまうんでしょうか。ちょっと不思議な気がするんですが。

 

その不思議なところが日本教のエッセンスでして、神様だとか仏様だとかいっても、そのよく付く果てには人間がいて人間のためになるんだという。本来神様というのがそうじゃないっていうのがどうしても日本人には理解され得ないと。こういうふうに言いますね。

 

うーん。ということは仏教が来る前から、キリスト教が来る前から、外の宗教が来る前から、

日本人はもうそのように考えてきたし、そのようにしか考えられないんだっていうことなんでしょうか。

 

結局はそうです。しかしそのことを理解するのがまた大変でして。表面的には一応神様や仏様を立てておくと。

 

ですよね。ですから、どう考えても仏教国だとか、いや神道の国なんだとか、いやそれなりのクリスチャンがいるじゃないかと、私たちは自分たちを見るときに、どうしてもそのいわゆる宗教をどう信じるというふうに表から見てしまいますね。でも中身が実は違うんですね。

 

 

宗教って言うとやっぱり行動パターンがそのまま宗教って言われますよね。日本教の場合、どういう私たち日本人の行動が、その、日本教であると言えるんでしょうか。

 

行動の定形が無いところ、だから行動はどうしても作り得ないところが日本教の特徴だと思います。

 

行動がない。

 

それがなかなか、不思議な言い方なんですけど。

普通イスラム教ですと、こう行動しなさいというふうに決めるわけですよね。ですからイスラム教徒になりますね。儒教ですと、こう行動しなさいというふうに決めますね。ですからまあ儒教なり、中国風の考え方になりますよね。日本人の場合はこう行動しなさいというところが一切無いんですか。

 

そこが日本教の特徴。

 

一切無いのでは何にもなれない気がするんですが。

 

そうです、だから何にもなれないわけ。

 

何にも成れないんですか。

 

だから私たちが無宗教だといってしまってるのは、結局日本教を信じているということになるんですか。

 

だから最も宗教らしいイスラム教なんていうのは、絶対に日本に入ってきていないでしょう。そこが不思議なところでして。あのころの航海技術なんて、イスラム教が世界最高でしょう。ところが、キリスト教も入ってきて仏教もみんな入ってきたけど、イスラム教にいたっては絶対に日本に入ってきていない。少なくとも入ってきた形跡がないんですなあ。原因はなんでだと思いますか。

 

なんでですか。

 

イスラム教というのは、行動パターンがきちんと決まっているでしょう。日本の西郷隆盛みたいに何事のおわしますかは 知らねども かたじけなさに涙こぼるる、ああいうことはイスラム教ではあり得ない。だからイスラム教と日本教ってまったく対立的な宗教。

 

正反対って言うことですね。

 

そうすると、日本人は何を信じているかって言うと、特に何か自分より大事なものがあるから、それを信じて自分は価値が無いと思うっていうのが大嫌いで、いろんな物があるけれども、自分に役に立てばいいやと。

 

結局はそうですね。

 

いろんなその偉そうな人に、ああだこうだ言われて自分にルールを、その当てはめるのは嫌だと。なんでもありの状態がいいやって。頑固に、頑なに信じている。

 

信じてはいないけれども、結論としては信じていると同じ事になる。だから中国と比べてみたら、日本は絶対に政治なんかでないといってるんですよ。孔子みたいにきちっと固まった人、日本にいないっていうのは、結局そこから来るんですね。

 

ヨーロッパの社会というのは、非常に苦労に苦労に苦労を重ねて、宗教と政治を分離して、宗教を近代化し、社会を近代化したと。で、やっと人間が勤勉に合理的に行動できるようになったと。

ところが日本人の場合、そういうそのプロセスを踏まないのに、なぜかよく働くっていうことがあってですね、これがあの、最大の不思議だと、そのウェーバーの考え方に立てばですね。こうなるので、山本七平さんは非常に頭を捻ってですね、日本教という考え方を出したと思うんですけど。いったい、この日本人が勤勉に働く原因はなんなんでしょうか。

 

日本の神話を御覧なさい。日本人っていうのは、神話の主神からして勤勉に働いていると。例えば、アマテラスオオミカミは、あれでしょう、スサノオノミコトが乱暴をした時にまゆを育てていたと。あんな大昔から、そういう習慣があったんです。ゼウスが勤勉に働いたなんてどこにかいてありますか。

 

なるほどね。

 

それから、ゼウスが怒った時には、その罰としてお前たちは額に汗して働かなければならないとまで言ったんですよ。

だから、そもそも神話時代においては、神様は働かないし、働くなんていうことは懲罰だったんです。日本では、主神自らが勤勉に働いておられるではありませんか。

 

ということは、日本人は働くのは当たり前で、働くのは罰であると。働かない人間の方が偉いんだと、こういう考え方はもう、はじめから無かったんですか。これは珍しいことですか。

 

非常に珍しい。

 

非常に珍しい。じゃあ日本人というのは、仏教が来る前から、はじめから珍しい民族だったんですか。

 

そうです。

 

それは説明しようがないんでしょうかそれ以上。

 

よく分析したら説明できると思いますけどねえ。

 

まあとにかく、そういう出発点があると。私たちは、もう先祖の先祖から働き者だったそうですよ。

 

不満とか、疑問とかをもったことが今までは無かったんですね。

 

今の世の中、結構働きたくない人とか、見られると思うんですが。

 

ヨーロッパの中ではそうでないという考え方も、まだ残っていますね。例えば日本の会社なんかでもあのあれでしょう、お前は働かなくてもいいから、会社にだけ来ておれ、月給はやるっているっていうのは、それ何っていうんでしたっけ。

 

窓際族。

 

そう窓際族。ヨーロッパの会社では窓際族になったらばんざーいって喜びますよ。何にも仕事しなくても、会社に来なくても給料だけやると。

それから、もうひとつね。日本では、定年になると悲しむでしょう。ところがヨーロッパの、特に兵隊なんかだったら定年になったら大喜びですよ。もう何にもしなくても給料だけもらっていられると。それから大喜びでヨーロッパでは定年になってから、南極探検にいったり、アフリカの探検に行ったりするひとが多いでしょう。

日本だったら、どうですか。定年になったらもう、働く無くて給料だけもらうというのは極楽でもなんでもないから、もう皆、猫と一緒に寝ちゃえだとかなっちゃうでしょう。そのあたりがヨーロッパと正反対ですな。

 

働いている方がいいっていう人が多いですよね。

 

ということはヨーロッパではその、勤勉が価値があるっていう風にプロテスタントは言いましたけど、普通の人はなかなかそうは思えなくて、やっぱりやりたいことと働いてることは違っていて、働いてるってやりたいことじゃないんですね。

だから、定年になると大喜び。でも日本人はやっぱり働くって大好きですから、働きたいんですね。働かなくていいよって言われると、もうがっかりしてしまう。

 

何していいかわからない。

 

何していいかわからない。私もすこしそういうところがありますけども。そうすると、これはよく考えてみると、宗教的価値観に近いもの考えられるんですか。

 

それに近いですね。宗教そのものだとおもいます、日本人の。

 

働くことに価値がある。この世の中、人のために役に立つ労働をすること働くことに価値がある。考えること自体が宗教であると。

 

資本主義の精神の一端は、日本人はすでに持っていたんですなあ。

 

そうすると、日本民族というのは、あのはじめから、資本主義国家として成功するように運命付けられていたわけですか。

 

そうですなあ。その意味では。

 

そうなりますと、山本七平先生のお考え方についてコメントを頂きたいんですが、山本七平先生は、仏教とか神学とか儒教とかの中に、近代的な勤勉をその育てる考え方があって、それが日本人を勤勉にしたのでは無いかという風にお考えになったように思うんですけど。

小室先生の今のお話は、必ずしもそうではなくて、もっと昔から人間は勤勉だったんだと。突き詰めていえばですね、仏教や儒教やそういうものはですね、勤勉と関係ないと。こういうお話に聞こえたんですが。どちらの考え方がよろしんでしょうか。

 

例えば、儒教には、勤勉ということを宗教的に尊ぶという考え方はありませんなあ。

 

そうすると、どう転んでもそこから勤勉の考え方は出てこないはずだと。

 

結局、勤勉なんてことは、下層民にやらせることであって、王様がやるべきことではない。

 

そうすると政治家が命令をすると、人民は勤勉になる場合がある。日本人の場合は政治的指導者が命令したわけでもないのに、文化として、勤勉というものが深く深く組み入れられていると、ここが違うということですね。

 

その日本教の中身についてもう少し伺いたいんですが、山本七平さんが空気ということをおっしゃった。この空気が支配するというのが日本教の一番大事なポイントの一つだと思うんですが、この空気というのは、どういう風なものだと理解したらいんでしょうか。

 

そこが、一つの特徴でして、人々が、漠然と思うようなこと。

 

例えば、どういうことですか。

 

どんな宗教にもドグマっていうものがありますが、ドグマっていうものは、はっきり、これはこうだという断定でしょう。ところが日本教は断定も何も無くても、人々がそれをなんとなしに、いいと思えばそれはよいことになっちゃう。

 

そういうものが、これは自然に生まれるんでしょうか。

 

自然に生まれても、それが逆に人間を拘束する。

 

普通、例えば儒教ですと、偉い政治家がいて、人々に命令をしますね。キリスト教世界だったら神がいて命令しますね。だから絶対なんですけど。日本人の場合はそんなものを全然信じていないわけですね。自分たちしかいないと。その時に、自分で自分の首を閉めるといいますか、自分で自分をコントロールする絶対的なものというのが自然に生まれてしまう。こういうものなんでしょうか。

 

じゃあこの生まれる理由やプロセスは説明できないんでしょうか。

 

けども、そうやって生まれたものが皆を拘束する。

 

それって困る場合もあるんではないでしょうか。

 

困る場合もありますねえ。

 

そうやって出てくるものが言葉にならないし、合理的ではないですから、結果がいいとはかぎりませんね。

 

皆がおんなじ感覚を持っているとも限らないと思うんですけど、うまく、回っているのはどういうことでしょうか。

 

例えば、ヨーロッパとの三国同盟のころですな。はじめ皆三国同盟にみんな反対してた。ところが、最後になると枢密院においてでさえも全員一致で賛成すると、こういうふうになったんですよ。ことここに至れば、賛成せざるを得ず、とかいうわけのわからないことをいう。

それは日本全体の空気がはじめは三国同盟に反対であったのに、いつの間にか、賛成になったから。枢密院議員ほどの経験があり、理性が巧みな人でさえも反対できなくなった。例えば衆議院なんかだったら、あっというまに空気に支配されるでしょう。

 

あの、空気の研究という本を読んで、そういうふうな例が沢山書いてあって、私大変恐ろしいなと思ったんですけど、普通その民主主義とか、合理的な近代社会というのは、個人個人がよく考えて、自分の意見を持って、それをその、たとえ反対があろうと主張していくと。こういうことが出発点になるとおもうんですけれど、そういうことはできないし、してはいけないということが、この空気という考え方ですよね。

 

 

 

日本の会議でよくあるんですけれども、大勢で議論をするはずの会議でもなかなか意見がでてこないと。どうも大体結論が決まっているようであると。で、会議ではない別な場所で大事なことが話し合われているようなんですね。

ところが別な場所のもう少し小さな会議でもですね、やはり、何か結論が決まっているような事があって、もっと一部分で決まっていると。結局、誰がいつ決めたかわからない事がずっといろいろな会議を通っている間に、すっかり本決まりになっていくっていう、こういうことをよく経験するんですけど。

これが空気、だと思うんですけれども。これだとですね、討論ができないという点が、一番困るという点なんですね。日本人って昔から、こんなことばっかりやってきたんでしょうか。

 

本質的に言ったらそうでしょう。昔からといっても頼朝の時代や信長の時代でも、信長ほどの独裁官でも、なんとなくそれらしい所には持っていって、最後の決定っていうのにはそんならわしが決めるとは言わないわけです。

 

うん。

 

秀吉が重んじられたのもそうでして、私はこういう意見もあるんですがと言って信長がほすれて述べるでしょう。それで信長はじゃあそれにしようというということで決まる。

 

私はこういうふうに決めるという風に日本人は絶対に言わない民族。

 

言いたくないんですね。それと、正反対なのが近代西洋的な考え方です。というのもマゼラン。マゼランは、艦隊の司令官になったけど、その人より有力な館長はなんぼでもいた。

ところが、人々を集めてわしが絶対にこういうふうに決めるぞ、というとそれが通るわけですよ。それが通らないのが、日本では頼朝や信長と言えどもマゼランのような最終的決定はできない。

 

なるほどね。あの、そこの違いなんですけど、それは要するに、絶対の神、あるいは絶対の価値というものを自分たちとは独立にあるものと認めるかどうかという風なことと深い関係があるように思うんですけど。

神というものがあって、全員がそれに従うんだっていう風に考えることに慣れていれば、神の代理人や、神を解釈する人や、神の原則に忠実な人っていう、偉い人間がでてきた場合にですね、やっぱりその人に従わなくちゃいけないなと皆思うと。

でも日本みたいに、絶対の神や絶対の価値があるとは全然誰も思っていない時は、偉そうな人間が出てきた場合は、同じ人間のくせにと思ってしまって、決して従おうとしないと。

じゃあそれにはお膳立てというものが必要になってくるわけで、全ての意思決定は皆そのお膳立ての結果になってしまうと。これをまあ空気と言っていると。これがその、日本教と、ヨーロッパの、あるいはそのなんていうか、普通の宗教との違いだと。

 

普通の宗教というよりも、むしろヨーロッパの一神教の方が変わった宗教であると。

 

なるほど。というようにまあ、理解できるように思いました。

 

その、キリスト教は日本に二回入ってきてるんですね。一回目は、切支丹の時で、これはあの、切支丹の弾圧があって、その経緯はわりに知られているんですが。

明治時代になってキリスト教が入ってきた後、信者の数は増えていないわけなんですけれども、このでも、キリスト教の影響というのは、直接、間接的にいろいろ及んでいると思うんで、このところは十分明らかになっていないような気がします。キリスト教というのは、日本に大きな影響を与えていると考えていいんですか。

 

大きな影響を与えていますね。

 

どういう形で。

 

例えばキリスト教を禁止しているのもその証拠です。

 

は。

 

キリスト教を禁止したでしょう。大きな影響を与えていなかったら禁止なんかする必要ありません。

 

なるほど。

 

日本で権力によって禁止された宗教はキリスト教だけです。イスラム教なんか全然禁止していないでしょう。はるかにあの時は力があったにもかかわらず。ところが日本にはほとんど入って来なかったし、影響も無かった。

 

なるほど。よく考えてみるとなぜキリスト教が禁止されなければならなかったていうのは不思議ですね。どういう理由があったんでしょう。

 

不思議でしょう。そのくらい強力な力を持ち始めていた。

 

強力な力を持つということは、日本社会を根底から覆すという意味ですか。

 

あるいは。そうやられたら困るから、徳川幕府は必死になって禁止した。ところが、その時に入ってきたキリスト教徒が、本当にキリスト教を理解していたかどうかとなると、私は理解していなかったと思います。

 

と、おっしゃいますと。

 

だって、日本ではキリスト教徒であるかどうか識別するのには、踏み絵だとか、ああいうことを強制したわけでしょう。本当のクリスチャンだったら、踏み絵なんてものはえい蹴っ飛ばせって蹴っ飛ばすはずだった。だってそんなものはどうせ被造物にすぎない。

 

偶像だから。

 

そんなもの蹴っ飛ばしたって、心でキリストを信じていたら、なんでもねえ、えい蹴っ飛ばせって言うに決まってるけど、そこまではやらなかったということは、本当に理解はしていなかったと。

 

あの、ある人の意見ではですね、キリスト教と、その明治天皇制というのは多少似ているところがあると。なぜならば、神である、そして人間でもある天皇というものがいて、国全体をですね、生まれ変わらせたからだと。こういう意見もあるんですけど、先生はどうお考えですか。

 

まあ、その意見は、注目すべきだと思いますね。だってキリスト教の一番すごいところは予定説でしょう。それからファンダメンタリズムでしょう。そういうのは日本ではずっと無かったけど、明治維新によって全部出てきた。

 

明治維新にファンダメンタリズムが出てきた。どういう形で。

 

吉田松陰だとか、ああいう人々が日本の神話を、そのまんま教育で教えろと。

 

ファンダメンタリズムの特徴というのは、大事な聖典、テキストというのがあって、それがとても重要な価値があり、そこになんでも書いてあると。それを行動や思考の基準にしようと、そういう考え方ですね。そういう考え方が明治の時に、でてきたんでしょうか。

 

そうです。日本の神話なんか、徳川時代にはあんなもの作り物だと思われていたのに、明治になってから初等教育で教科書にさえ載ったわけです。ファンダメンタリストの典型的なあれは。

 

その明治初等教育ですね。つまり神話を、その、教育のなかに組み込んだ、このファンダメンタリスト教育。これは日本教と正反対のものなんですか。それとも日本教が現状に適応して、新しい形を取ったものなんでしょうか。

 

あとのほうだと思います。

 

日本教の変形であると。

 

じゃなくって、日本教がファンダメンタリズムに徹した。

 

徹した。そういうことが出来るんですか。

 

実際ずっと昭和20年までは、その通りの教育を行なっていたでしょう。そういう教育は、徳川時代にさえ、行われなかった。

 

そうすると、これは大変に近代的なものなんですね。神話を教えていますが。

 

そう。

 

なるほど。で、その結果、えっと日本のどこが変わっていったんでしょうか。

 

日本が、国家として誕生できたと。

 

普通、国家として誕生するためには、宗教と分離して、国家として誕生するんですが、では日本の場合、宗教と分離しないで、むしろ宗教に徹することによって、国家として誕生したということになりますか。

 

そうだから、そのような国家神道が、キリスト教の代用品になった。

 

キリスト教の代用品にはなりましたが、その結果国家が宗教的な国家になってしまいましたね。

 

そのおかげで、近代的な国家になれたと。

 

ということは、あの戦争に負けてしまった後ですね、天皇が人間宣言をして、国家は宗教的なものであってはいけないと、こう言われてしまいましたよね。そうすると日本人は、なんでしょう。近代化のバネを一つ失ってしまうことになると思うんですが。

 

そうだと思います。だからこんな変な状態になっちゃってる。

 

こんな変なことになっているというのは。経済だけがあるけれども、他の価値観については混迷を極めていると。

 

そうです。

 

普通に考えると、一人ひとりが、世俗の経済とか政治の問題と違った自分の信仰をというものを持ってですね、一人ひとりが信仰を持つ結果、日本にも生き生きとした宗教がいくつも育ってくるっていう。これがひとつのやり方だと思うんですけれども。

ところが世間を見てみますと、宗教に対する無関心というものがむしろ主流で、信仰を持とうなんていうひとはむしろあんまり多くないと。そうすると西洋の宗教と国家が分離した形の近代社会にはなかなかならないですね。

 

なかなかなりませんね。

 

そうすると日本教というものが曖昧な形で生き残ったまま、経済は頑張っているという風な。こういう日本社会になってしまうと。

 

その経済も、だんだん頑張れなくなりましたけど。

 

となると、あんまり元気が出ませんね。何か先生、今の日本社会に、こうすればいい、という風なメッセージがございますでしょうか。

 

そんなメッセージなんかが簡単にできるくらいだったら、大変な問題。仮に私が、やることがあるとすれば、その、宗教を徹底的に人々に理解させること。既存の宗教ですねしかも。新興宗教なんて簡単にできると思いませんから。

特にいまのところ、日本人はどうしても、もっともっとキリスト教を勉強する。ユダヤ教なんてちょっと遠すぎるし、イスラム教ももっと遠い感じがしますと。ところが知っているようで、今の日本人ってキリスト教っていうをほとんど知らないでしょう。

 

先生にも何冊も宗教についての分かりやすい著書がございます。私はあれがその、大学と言わず、高等学校や、中学校で是非多くの先生によって教えられたらいいのになという風に思います。

 

もっと初等的なのも書きましょうかね。

 

そうですね。